私が、「内観」という言葉を聞いたのは、少年院などでの更正プログラムに利用されているという程度のものでした。具体的な内容などは全く知りませんでした。私は、教師をしていますが、「内観」とは少年院に入らなければいけなくなった少年・少女たちだけが行う特別なものと思っていたのです。
ところが、私が受けもっているクラスのある女子生徒の2学期からの心の変化と道徳の時間に読んだ資料の感想や自分の考えを書くノートに書かれていた「私はこの夏休みの8日間を通して、母からの愛がどれほど大きいものか気づかせていただきました」という一文が心に引っかかっていました。後でわかったのですが、この教え子は夏休みを利用して集中内観を体験してきたのです。
この日の道徳の主題は「家族の理解」で父母、祖父母に敬愛の念を深め、家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築くこと(中学校学習指導要領)を目的としています。道徳の指導書(マニュアル)はありますが、近年の私はほとんど参考にせず自分なりにアレンジしています。この日は「お母さんについて」か「お父さんについて」書かせました。ほとんどの生徒は、「朝、起こす人」「ご飯を作る人」「お小遣いをくれる人」程度のことしか書きません。私もそうでしたが中・高校生の時期、特に男子は母親に対して反抗的で自己中心的です。大きな愛情が注がれているのに、素直には受け止めませんし、気づかないふりをしています。
私の母は、2年前からひどいうつ病です。うつ病に苦しむ母の姿を見てから、どうやって母に対して今までの恩を返そうかと真剣に考えるようになりました。週末になると可能な限り実家に帰り、話し相手になりながら、そればかり考えていましたが、なかなか、素直に自分が表現できずに悩んでいました。「こんな思いを生徒たちにもさせたくないし、自分の教え子たちにも素直に親に対して接して欲しい」という思いで教壇に立っていました。そんな私にとって、クラスの教え子のあの文章はうらやましいほど、純粋なものでした。
その教え子から、内観という考え方や集中内観のことを聞き、私自身が非常に興味を持ちました。「お世話になったこと」「して返したこと」「ご迷惑をかけたこと」の内観の考え方は、私の中で素直に受け止めることができました。
運命的なものを感じながらも、自然体で集中内観に臨むことができました。
しかし、始めの2日間までは平常心で臨むことができたのですが、3・4日目になると仕事のことや生徒のことなどの雑念が入ってきてしまい。1分1秒が苦痛で苦痛でしかたありませんでした。足が伸ばせない苦痛、字が読めない苦痛、内観以外何もできない苦痛が次から次へと私を苦しめます。一時期はこれは、修行以外の何者でもないと考えたほどでした。そんな中で、先生や奥さまが私達、内観を行う者が集中して取り組めるように、お風呂や食事など、身の回りのことをしてくださったことが非常にありがたかったです。特に奥さまが作ってくださる食事が私の救いでした。家事があるにも関わらず、毎回、定時に内観の面接にきてくださる。そして、運動ができない私達の体調を考えてくださった食事のメニューと食事の量。非常にありがたく、励まされるおもいがしました。
また、この内観にはノルマがないことが救いでした。この時間内に100個考えなさいとか、必ずこうしなさいということがないこと。あくまで自分自身が思い出し、考えたもので良いこと。その反省の深さは、その人の個人のレベルで良いこと。私の場合は、あまり深い反省ができたとは言えません。しかし、現在も日常内観を続けていますが、集中内観が土台になっていることは確かです。
そんなことで5日目からは、時間を惜しむように、自然と自分自身と向き合えることができました。考えている間、何とも言えない安心した気持ちになり、心穏やかな幸福感を味わうことができました。また、どんなに親に対してご迷惑をかけ成長し、お世話になったことが多いことか痛感させられました。
内観を終わって感じたことは、2つあります。1つ目は、自分にとって内観的な考え方は、決して新しくないこと。懐かしい感じさえしました。私が幼い頃、育てていただいた中で誰かは思い出せませんが、身近な方で内観的な考え方もって、私を育ててくれた人がいたこと。その方は内観を知っているかどうかは、わかりませんが。
もう1つは、少年・少女の犯罪が多くなったり、凶悪な犯罪が多くなった日本ですが、この内観という考え方が、多くの人、特に大人に広がれば、決して大げさでなく日本が救われることを感じました。
最後に、この未熟な私の集中内観に8日間、あたたかく見守ってくださった先生、奥さまありがとうございました。8日間の集中内観が無駄にならないように、日常内観を怠らず、続けようとおもいます。